シティ・ポップ研究室
— コード進行と再文脈化の先へ
響きの正体は、和音の中にある。
これは「シティ・ポップ沼 — 機材とスタジオの奥底へ」のさらに先です。沼では機材とスタジオという“作り方”の側を掘りました。研究室ではその先、和声の構造と、このジャンルが半世紀近くを経て再文脈化されていく現象そのものに踏み込みます。
もくじ
「沼」のさらに先へ
沼編では、シンセサイザーという機材とスタジオという場所から音の正体に迫りました。研究室ではもう一歩進んで、そもそもなぜあの響きが“都会的”に聴こえるのかという和声の構造、そしてこのジャンルが日本国内での評価と海外での再評価という、まったく異なる2つの文脈を生きてきたという事実に踏み込みます。
コード進行という沼 — テンションコードと分数コードの美学
シティ・ポップ特有の“おしゃれ”な響きの多くは、ジャズやフュージョンから輸入されたテンションコード(9th、11th、13thなどを加えた和音)と、分数コード(ベース音を和音の構成音以外に置く、たとえば「C on G」のような表記)の多用によって生まれています。単純なコード進行に一音加えるだけで、響きが急に都会的で洗練された印象に変わる——この和声感覚は、はっぴいえんど周辺やユーミンの編曲を支えたミュージシャンたちが、当時のジャズ/フュージョンの語彙を歌謡曲の文脈に持ち込んだことに由来すると言われています。歌詞やメロディだけでなく、コード譜を追いかけてみると、このジャンルの設計図が見えてきます。
リズムマシンと生演奏の融合
1980年代に入ると、Roland TR-808に代表されるリズムマシンが導入される一方で、生ドラムのグルーヴ感も同時に重視され続けました。打ち込みの正確なビートと、人間の演奏が持つ微妙な揺らぎを1曲の中で共存させる——この「機械と人間のハイブリッド」感覚こそが、80年代シティ・ポップのサウンドを決定づけた要素のひとつです。同じ時期の海外のダンスミュージックが打ち込み一辺倒に向かっていったのに対し、日本のシティ・ポップは生演奏の情報量を手放さなかった、という比較をしてみると面白い発見があります。
ヴェイパーウェイヴという再文脈化
2010年代、インターネット上で「ヴェイパーウェイヴ」と呼ばれる音楽ムーブメントが生まれ、その派生ジャンルである「フューチャーファンク」は、80年代シティ・ポップの楽曲をサンプリング・スロウダウンして再構築する手法を多用しました。これにより、竹内まりやの「プラスティック・ラブ」のような楽曲が、リリースから30年以上を経て、日本語が分からない海外のリスナーの間で熱心に聴かれるようになります。オリジナルの文脈とは全く異なる場所で、まったく新しい意味を与えられて音楽が生き直す——これもまた、レコードという記録物が時間を超えて旅をする現象のひとつです。
配信解禁という事件
長らく日本の楽曲は、権利関係の複雑さから世界的な音楽配信サービスでの解禁が遅れる例が少なくありませんでした。ネット上での再評価の高まりを受け、2020年前後にかけて主要なシティ・ポップ作品が相次いでストリーミング解禁されたことは、ファンの間で一種の“事件”として受け止められました。海外のリスナーの熱量が、日本国内のレーベルの権利運用を動かす——インターネット時代ならではのこの逆輸入的な現象は、シティ・ポップというジャンルの再評価史そのものを象徴する出来事です。
「シティ・ポップ」というジャンル名を疑う
実は「シティ・ポップ」という呼称は、対象となる作品群が同時代にリアルタイムで自称していた統一的なジャンル名というより、後年になって——特に海外での再評価の過程で——遡及的に整理・命名された側面が強い言葉です。当時の音楽誌ではニューミュージックやAORといった呼び方が併存し、アーティスト自身がジャンルを強く意識していなかったケースも多く見られます。「シティ・ポップとは何か」を厳密に定義しようとすればするほど輪郭が曖昧になっていく、という逆説こそが、この言葉の面白さでもあります。
研究室用語辞典
最後に、この研究室でよく見かける言葉だけ。覚えなくても大丈夫です。
- テンションコード
- 9th、11th、13thなどの音を加えた和音。ジャズ/フュージョン由来の“おしゃれ”な響きの正体です。
- 分数コード(オンコード)
- ベース音を和音の構成音以外に置く記譜法。表記は「C on G」など。浮遊感のある響きを生みます。
- ヴェイパーウェイヴ/フューチャーファンク
- 既存楽曲のサンプリング・再構築を軸にしたインターネット発の音楽ムーブメント。シティ・ポップ再評価の入り口になりました。
- ストリーミング解禁
- 権利関係の調整を経て楽曲が音楽配信サービスで聴けるようになること。海外の再評価が国内の権利運用を動かした例があります。
- 遡及的ジャンル名
- 同時代には自称されておらず、後年の整理・再評価の過程で名付けられたジャンルの呼び方。「シティ・ポップ」もその一例とされます。