The Laboratory #1 ─ Classical

クラシック研究室
— ピッチとテンポの、その先へ

ここから先は、趣味というより研究です。

これは「クラシック沼 — 録音会場とプレスの奥底へ」のさらに先です。沼では会場やプレスという“モノ”の側を掘りました。研究室では逆に、演奏そのものの中にある学術的な議論——ピッチ、テンポ、編集という3つの変数に踏み込みます。

もくじ

  1. 「沼」のさらに先へ
  2. ピッチという最後の変数
  3. 「正しいテンポ」論争 — ベートーヴェンのメトロノーム問題
  4. ピリオド楽器という思想
  5. 編集という魔法、あるいは欺瞞
  6. 校訂報告書を読む、という最終形態
  7. 研究室用語辞典
1

「沼」のさらに先へ

沼編では、同じ演奏でも会場やプレスが変われば音が変わるという話をしました。研究室ではもう一歩進んで、そもそも「同じ演奏」という前提自体を疑います。ピッチ、テンポ、編集——このどれもが、私たちが聴いている“1つの演奏”を形作る、目に見えない変数です。

2

ピッチという最後の変数

現代のオーケストラは、多くの場合A(ラ)の音を440Hz前後に合わせて調律します。しかしこれは絶対的な基準ではなく、時代や地域によって基準ピッチは揺れ動いてきました。バロック時代の音楽を当時の慣習に近いピッチ(現代よりやや低い、およそ415Hz前後)で演奏する古楽器オーケストラも存在し、同じ曲でも基準ピッチが違うだけで、耳に届く印象がわずかに、しかし確実に変わります。「音程」そのものが歴史的な選択の産物だと知ると、聴き方が一段変わります。

3

「正しいテンポ」論争 — ベートーヴェンのメトロノーム問題

ベートーヴェンは自作の交響曲にメトロノームによる速度指定を残しましたが、その数値が実際に演奏するにはあまりに速すぎるとして、長年「彼のメトロノームは壊れていたのではないか」という説が語られてきました。20世紀後半以降、この指定を字義通りに実行しようとする演奏(ピリオド演奏系の指揮者に多い)と、伝統的なロマン派的テンポ感を尊重する演奏とが並走するようになり、いまも決着のついていない論争です。同じ交響曲が指揮者によって何分も演奏時間が違うのは、単なる好みではなく、この論争のどちら側に立つかという態度の表明でもあるのです。

4

ピリオド楽器という思想

ガット弦、当時の設計に基づく管楽器、小規模な編成——作曲された当時の楽器や奏法を可能な限り再現しようとする「ピリオド楽器(オリジナル楽器)」の演奏は、20世紀後半に大きな潮流になりました。これは単に「古い音を懐かしむ」ことではなく、「私たちが“クラシックらしい”と思っている音自体が、後世に作られた慣習にすぎないのではないか」という問いかけでもあります。同じ曲をモダン楽器編成とピリオド楽器編成で聴き比べると、その問いの意味が体感できます。

5

編集という魔法、あるいは欺瞞

スタジオ録音の多くは、実は複数のテイクを編集でつなぎ合わせて完成しています。EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグは理想の演奏を作り上げるために膨大な編集を行ったことで知られ、ピアニストのグレン・グールドも「編集は演奏を汚すのではなく、理想に近づける手段だ」という立場を公言し、コンサート活動から退いてスタジオでの録音制作に専念しました。1回の“完璧な演奏”という幻想と、切り貼りで作られた“理想の演奏”という現実。このどちらを美しいと思うかも、クラシックの聴き方をめぐる根深い議論のひとつです。

6

校訂報告書を読む、という最終形態

原典版(Urtext)の楽譜には、しばしば「校訂報告(Critical Commentary)」という、editor がどの資料を根拠にどの音・どの強弱記号を採用したかを詳細に記した文書が付属しています。これを読むことは、もはや聴く行為ではなく、作曲家の手稿や初版譜を巡る文献学の世界に足を踏み入れることを意味します。ここまで来ると、レコードを聴くという趣味の輪郭は静かに溶けて、音楽学という学問の入り口に立っていることに気づきます。それもまた、悪くない景色です。

7

研究室用語辞典

最後に、この研究室でよく見かける言葉だけ。覚えなくても大丈夫です。

ピッチ基準(A=440/415)
調律の基準となる音の高さ。現代の標準は440Hz前後だが、バロック期の慣習を再現する演奏ではより低い基準が使われることがあります。
ピリオド演奏(HIP)
Historically Informed Performanceの略。作曲当時の楽器・奏法・編成を可能な限り再現しようとする演奏スタイル。
校訂報告(Critical Commentary)
原典版楽譜の編者が、採用した音や記号の根拠となる資料や判断を詳細に記した文書。
オーセンティシティ論争
「作曲者の意図に忠実な演奏とは何か」を巡る、決着のつかない継続的な議論の総称。
編集(スプライシング)
複数のテイクの良い部分をつなぎ合わせて1つの演奏に仕上げる録音技術。理想の演奏を人工的に作り出す手法です。
The Laboratory ─ 次の研究室 ジャズ研究室 — 採譜と批評という学問へ
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