ジャズ研究室
— 採譜と批評という学問へ
誰が弾いたかの先に、何を弾いたかがある。
これは「ジャズ沼 — テイクとオリジナル至上主義の奥底へ」のさらに先です。沼では盤そのもの——テイクやプレスという“モノ”を掘りました。研究室ではその中身、演奏そのものを記録し、分析し、言葉にしようとしてきた人々の営みに踏み込みます。
もくじ
「沼」のさらに先へ
沼編では、テイクの違いやプレスの違いという“聴こえ方”の話をしました。研究室ではもう一歩進んで、演奏の中身そのものを対象にします。誰が弾いたどのフレーズが、どれくらいの精度で楽譜に書き起こせるのか。スウィングという曖昧な感覚は、どこまで数値化できるのか。ジャズは即興の音楽であるがゆえに、それを記録し、言葉にしようとする学問的な営みが積み重なってきました。
ソロを採譜する沼 — トランスクリプションという学問
即興演奏を五線譜に書き起こす作業をトランスクリプションと呼びます。チャーリー・パーカーやジョン・コルトレーンの名演は、後進の奏者たちによって幾度も採譜され、教則本として出版されてきました。しかし即興は等間隔の拍にきれいに収まらないことが多く、同じソロでも採譜者によって細部の解釈が食い違うことがあります。「正確な楽譜」は存在しない、あるのは「ある耳による、ある時点での書き起こし」でしかない——この事実に気づくと、1本のソロがいかに一回性の高い出来事だったかが分かります。
スウィングの揺れを測る、という研究
ジャズの「スウィング感」は、楽譜上の8分音符を単純に均等な長さで弾いていないことに起因すると言われます。実際には奏者やテンポによって、長短のタイミングの揺れ方(いわゆるシャッフル比)は微妙に異なり、これを音響分析ソフトで波形として測定しようとする学術的な研究も存在します。「グルーヴが良い」という感覚的な言葉の裏には、ミリ秒単位のタイミングのずれという、驚くほど精密な物理現象が隠れているのです。感覚と数値、その両方から迫れるのがジャズという音楽の奥深さです。
1942年の録音禁止令という空白
1942年から1944年にかけて、アメリカ音楽家連盟(AFM)はレコード会社との著作権使用料を巡る対立から、加盟ミュージシャンによる商業録音を全面的に禁止しました。この「録音禁止令(Recording Ban)」の期間、器楽演奏の新譜はほぼ途絶え、歌手のみのアカペラ録音や過去音源の再発でレーベルはしのぐことになります。ちょうどこの空白期間はビバップが水面下で生まれていた時期と重なり、スタジオ録音として残されなかった初期ビバップの姿は、ライブの断片的な記録から推測するしかありません。「録音されなかった歴史」があるという事実そのものが、ジャズ史の面白さでもあります。
ディスコグラフィーを編む人々
ある演奏家が、いつ、どのスタジオで、誰と、何を録音したか——これを網羅的に記録した文献をディスコグラフィーと呼びます。イギリスの研究者ブライアン・ラストは膨大な初期ジャズ・録音を調査し、基礎資料となるディスコグラフィーを編纂したことで知られています。マトリクス番号や録音日を1件ずつ突き合わせるこの地道な作業がなければ、私たちは自分が聴いている演奏がいつのものかさえ正確には分からなかったはずです。ディスコグラファーの仕事は、ジャズという音楽の年表そのものを支える縁の下の力持ちです。
ライナーノーツという批評
ジャズのレコードに添えられるライナーノーツは、単なる解説文を超えて批評の場でもありました。ナット・ヘントフやレナード・フェザーといった評論家は、ライナーノーツやジャズ専門誌への寄稿を通じて、その時々の演奏を同時代的に位置づけ、論争を巻き起こすことさえありました。レコードのジャケットを開いて活字を読むという行為は、演奏を聴く体験と地続きの、もうひとつの音楽体験だったのです。中古盤を手に取ったら、ぜひ裏のライナーノーツにも目を通してみてください。
研究室用語辞典
最後に、この研究室でよく見かける言葉だけ。覚えなくても大丈夫です。
- トランスクリプション
- 即興演奏を五線譜に書き起こす作業。同じ演奏でも採譜者によって解釈が分かれることがあります。
- シャッフル比
- スウィング感を生む、8分音符の長短の揺れの度合い。音響分析によって数値化しようとする研究があります。
- 録音禁止令(Recording Ban)
- 1942〜44年、AFMがレーベルとの対立から加盟ミュージシャンの商業録音を禁じた出来事。ビバップ誕生期の記録の空白を生みました。
- ディスコグラフィー
- 録音日・演奏者・スタジオなどを網羅的に記録した文献。ジャズ史の年表を支える基礎資料です。
- ライナーノーツ批評
- ジャケットに添えられた解説文が、単なる紹介を超えて同時代批評として機能した文化。